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【感動秘話】「ポーランドの英雄」とも言われるクマ、ヴォイテク。彼の信じられないようなエピソードと数奇な一生

「ポーランドの英雄」とも言われるクマ、ヴォイテク。彼の信じられないようなエピソードと数奇な一生

「ポーランドの英雄」とも言われるクマ、ヴォイテク。彼の信じられないようなエピソードと数奇な一生をまとめました。歴史上の実話です。

 

 

第二次世界大戦中のポーランド軍に、とてもユニークな兵士がいました。彼の名はヴォイテク。

 

連合軍伍長の肩書きを持つ彼は、なんとシリアヒグマ。しかし、多くの仲間から愛された兵士でした。

 

ヴォイテクは、母グマが猟師に撃たれ、イランのハマダーン付近で現地の少年に拾われました。1942年、生後3ヶ月の時でした。

 

ヴォイテクはビールとタバコが大好物、


幼いヴォイテクは始めのうちは食べ物をうまくのみ込むことができず、兵士たちは薄めたコンデンスミルクをハンカチに染み込ませ、ウォッカ瓶に入れて飲ませました。


ウォッカの瓶にミルク入れて飲ませ育てられたヴォイテクは、やがてポーランド軍のマスコットとなっていった。


ヴォイテクは、いつも自分が人間であるかのように振舞っていたそうで、初めから他のクマとは違う、とても個性的なクマだったそうです。


敬礼をすることも覚え、ひとりぼっちにされると「かまって」と鳴いたり、しかられると目元を前足で隠すなど、人間と長く暮らすうちに人間っぽいしぐさもするようになりました。


時々ヴォイテクが笑っているように見えたこともあるそうです。

 

ビールやたばこが好物で時々ご褒美としてもらっていた。


ヴォイテクは、タバコは吸うのではなく食べるのが好きだったとのことで、なぜか火のついたタバコでないと興味を示さなかったようです。


兵士たちのマネをしていたのかもしれませんね。

 

ときどき、人間とレスリングをして遊んだ


ヴォイテクは兵士たちとレスリングをして遊ぶのが大好きで、時にはわざと兵士に勝たせることもありました。


ヴォイテクは「礼儀正しい対戦相手」で、自分が勝つと喜ぶけれど、相手を倒すために無茶なことをすることは絶対になかったのだそうです。人に怪我をさせたこともなかったそうです。


甘えん坊のヴォイテクは兵士たちと一緒に眠ることを好み、時には夜の間に就寝中の兵士に寄り添い朝になって顔をなめて起こし、びっくりさせることもあったそうです。

 

野営中の夜は、いつも歩哨のそばにいて部隊を守ってくれた


元兵士の方は、「今となってはとても不思議な話だけれど、あの頃の私たちにとって、ヴォイテクのいる暮らしは当たり前のものでした」と話していました。


ヴォイテクは正式に徴兵され、ポーランド第2軍団第22弾薬補給中隊に配属。正規の兵隊となりました。


ペットは船に乗せられないという規則があり、考えあぐねてヴォイテクを伍長に任命したのです

 

戦争では自ら進んで補給任務を行う

戦争の真っただ中。ヴォイテクは、人間たちが砲弾を運んでいるのを見て、自発的にその手伝いを行うようになったそうです。


部隊ではその功績をたたえ、紋章を「砲弾を運ぶクマ」に変えました。


激戦となったモンテ・カッシーノの戦いでは砲弾が飛び交うなか一度も弾薬箱を落とすことなく補給任務にあたったそうです。


人間の兵士が一人では持つことができないほど重いものでも、ヴォイテクは簡単に持ち上げることができました。


クマのヴォイテクは、すっかり兵隊の一員となって戦争を生き抜きます。


しかし、兵士たちとの別れの時が…戦争が終わった後、ヴォイテクには悲しい運命が


戦後、ポーランドはドイツから開放されたわけですが、またもやソ連によって占領され、イギリス軍とともに戦ったポーランド軍兵士たちは、祖国に帰れなくなりました。
共産主義国となったポーランドに、イギリスと共闘した兵士たちの居場所はなくなってしまいます。


1947年、ついに別れの時が来ましたた。スコットランドのキャンプは解散し、ヴォイテクを動物園に預ける、という苦渋の選択しか残されていませんでした。


ヴォイテクを動物園にあずけるかどうか、本当に悩んだそうです。しかし、戦争が終わったばかりの当時、そのほかの道はありませんでした。


軍隊の兵士たちは、ヴォイテクとずっと一緒に居たかったので あくまでも一時預けるというかたちです。


その時の約束は、ポーランドが自由の国になったら必ずヴォイテクを迎えに行くというものでした。


兵士がひざまずいて後肢の鎖をはずそうとすると、ヴォイテクは兵士の顔を舐め、みずからすすんでケージに入った。それからようやく周囲を見回した。兵士たちが立ち去るとしばらく悲しげに鳴いていたそうです。

 

自由を奪われた動物園での生活


ヴォイテクは動物園で大人気だったそうなのですが、仲間のポーランド兵たちとも離れて暮らすことになり、今までの自由もなくなってしまいました。


ヴォイテクはもうかつてと同じクマではなく、その振る舞いには悲しみが勝っていました。他のクマと共用の飼育場にいたが、仲間といるのは好まなかったそうです。飼育場の真ん中にある岩山によじ登って、その上でまどろむことが多かったそうです。

 

人間のように育ったヴォイテクは、もはや他のクマと相容れることはできなくなっていたようです。


エディンバラの動物園に移ってからも、かつての戦友だった兵士たちはそこを訪れ、ヴォイテクのいる檻の中にタバコを投げ入れていたといいます。


兵士たちがヴォイテクに会いに動物園に行くと、柵の中に入ることも許されたそうです。管理者たちはぞっとしていましたが、観客は大喜びで、兵士らがヴォイテクと格闘するのを眺めたそうです。


バイオリンを持って来た元ポーランド軍の中尉が舞踊曲を演奏すると、ヴォイテクはかつてそうしていたように踊り出したのだそうです。

 

22歳で天寿を全うしたヴォイテク


ヴォイテクは数年間、病に苦しんだ。リウマチによる関節の変形があり、食道にも病気があった。岩山から落ちるのではないかと恐れて、晩年は狭いケージ内で過ごしました。


1963年12月2日に22歳で死去。死亡したときの体重は約250kg、体長は180cmを超えていたそうです。


クマとしては十分生きたと言える寿命だと思います。


かつてともに旅をした兵士たちが、彼を引き取りにくることはできませんでした。
きっとヴォイテクは、ポーランド兵たちと過ごした5年の日々を懐かしみ、一日も忘れたことがなかったでしょう


ヴォイテクの写真や動画はたくさん残されています。いかに彼が愛されていたかの証拠と言えるでしょう。悲しい戦争の記憶とともに語り継いでいきたいものです。